きっかけは20数年前です。当時茶道「鎮信流」をご宗家(鎮信流では家元にあたる方をこうお呼びします)から直接習っていました。私が中学、高校、大学と跡見出身であることがお分かりになって、「跡見は以前は茶道は鎮信流だったのですよ。学習院もそうでした。」とおっしゃいまして、お稽古の時に花蹊先生の掛け軸を床の間にかけてくださいました。(写真1) お茶は武野紹翁、村田珠光、千利休と続きます。その後大きくわけますと、武家茶といって、武家、大名が伝えてきたお流儀(代表的には片桐石州、松浦鎮信、松平不昧、井伊直弼などの人々)。それから千家(表千家、裏千家、武者小路千家などがあります。)の二つになります。立ち居振舞い、志の違いなどがあるのです。千家のほうは武器としての刀を放棄するという意味で、腰に刀をつける位置(左腰)に「袱紗」と言って茶道具を清潔にするための布巾をつけますが、武家茶のお流儀では、いざとなったら戦うという姿勢を内に持つために袱紗は右側で、左腰は空けておきます。 今をさかのぼること約40年、私が中学入学1、2ヶ月後だったと記憶しておりますが、お習字の井上幸子先生の花蹊先生のお話しというのがありました。「花蹊先生が駕籠に乗っていらっしゃるときに雲助に出会い、そのとき先生はすかさずご自分の草履で相手を追い払った。」という内容でした。なるほど、いざとなったら戦うのが跡見の教育という風に自分なりに解釈していました。(こういうお話しによる教育を跡見漬けというそうで、後日伺いました。)こんなお話しとか花蹊先生の跡見流の書道(女性的な書風とはどなたもおっしゃらないでしょう。)などから、精神的にはむしろ千家より、武家茶に近いのではと考えておりました。 その後しらべてみたいと思いつづけておりましたが、子育て、家業などで忙しく時間がつくれませんでした。今年になって大学の田中倫郎先生がお書きになりました「跡見との奇縁」(美学美術史学科会報)の文章を拝読しまして、実は私も調べたいことがあるのですとお伝えしましたら、すぐに板谷春子先生、資料室の中島先生をご紹介くださいました。 ところが跡見には創立時の茶道のお流儀についての文献は見つかりませんでした。また田中先生のご紹介で、後輩の内野公子さん(昭和50年卒、朱桜会)さんから『跡見花蹊女史伝』『花の下みち』『跡見花蹊教育詞藻』などをお借りして(非売品)読みすすむうちに、これは調べてみようという気持ちになりました。 幸い現在の鎮信流のご宗家(松浦章様)も大変協力してくださいまして、明治期から伝わっていた掛け軸は双幅の鯉の絵で、木製の箱書きには贈 跡見花蹊の文字があることがわかりました。またもう一幅の5人の画の寄せ書きには跡見玉枝(花蹊のいとこで閨秀画家)の名前とほおづきの絵のも残っているのがわかりました。 しかし鎮信流のほうでも学習院女子部と日本女子大学と神田女子学園は鎮信流であった記録があるけれども(当時の記録では鎮信流茶道宗家の松浦心月が自ら教育にあたっていた)、跡見の記録は見つかっていません。 そのうち、明治期の茶道についてなら、国立民族学博物館教授の熊倉功夫さんが調べていらっしゃるということが分かり、著書を開くうちにあったのです。 「茶の湯が衰退したとき、その再生をかけてさまざまの試みがあったことは前に記した。その一つは、茶の湯は役たたずの遊びではなく行儀作法の一助となる礼法の道である、という主張だった。それを女性の教育のなかに取り入れる人びとが出てくる。跡見花蹊(1837-1926)をはじめ女子教育にかかわる人びとである。花蹊は、女学校で行われる礼法教授が現実にはあまり役に立たぬと考えた。たしかに武家儀礼を基本とする小笠原流などの当時の礼法は、近代的な生活様式のなかでは若干問題があっただろう。花蹊にいわせると、作法の稽古よりは茶の湯のほうが、実際的であった。 学習院女子部でも明治40年のカリキュラムを見ると、「立礼、座礼、挿花、点茶」が含まれており、はやり明治末年の京都の女学校などを見ても、茶儀科がおかれて盛んに茶の湯教授が行われていたことがうかがえる。」(注1) 跡見開学のときの授業は9科目。国漢文、算術、和歌、習字、絵画、裁縫、筝曲、点茶、挿花です。これは時の明治政府の方針に必ずしも添った科目ではありませんでした。 「文明開化を唱える維新政府は伝統文化に対してはなはだ冷淡だった。周知のように、近代的な教育が始まったとき、その教科のなかに伝統文化は取り入れられなかったのである。音楽は西洋音楽一辺倒となり、舞踊や茶・花道を教科に含んだ学校教育はごく一部の学校を除いて採用していない。」(注2) 跡見の点茶、挿花は父重敬が自ら教えていました。「花蹊は一体に趣味の多い方で・・・生花にも趣味を持って居ったが茶の湯は子供の時分から習ったので特に大好きであった。」(注3) 明治8年1月、当時36歳の花蹊は女子教育の中に意識的に茶道を取り入れたのです。京都女子大学教授の籠谷真智子さんによれば、「学校茶道としては、これが初例であろう。」(注4)また公立女子校として一番早くに茶道を始めたのは跡見に数年遅れて京都女子校であったそうです。 花蹊は跡見開校以前に京都で塾を経営していましたが、それは父が姉小路家に仕えたため、その私塾という性格もありました。それで開校時の生徒の多くは、華族はじめ上流階級の子女であったのですが、女子教育に茶道教育は欠かせないということに早く気づいたのでした。
「姉小路公知と明治天皇を繋ぐ血縁」
跡見開学にあたって重要な人物といえばまず姉小路公知(1839-1863)(図1)を挙げなければなりません。「万延元年(1860)には父翁勤皇の志やみがたくして京都に赴きて姉小路家に仕えられしかば、・・・」(注5)その後花蹊の父重敬は終生姉小路家の家僕として仕えました。また花蹊の姉千代滝は「一時姉小路公知の奥向きに仕えた」(注6)とありますが、姉小路公知の長男、公義の生母となっています。公知は「尊?派公卿。通商条約勅許について反対派の先鋒として運動。文久2年(1862)の和宮降嫁問題{実際の降嫁は1861年}では、三條実美らとともに積極派の岩倉具見らを弾劾。しかし翌年、刺客に襲撃され、果敢な反撃もむなしく、殺された。」(注7)とあり、「この凶変にたいしては聖上も深く御軫念あらせられ、特に哀悼の宣旨を下され、三条公始め大義派の青年諸卿は実に朝権回復の棟梁を失ひたるを慨かざるものなかりき。殊に跡見一家の者は声を飲んで悲歎やる方もなかりしなり。花蹊先生も、この凶変を以て、生涯中最も悲しかりし出来事として懐旧の涙をしぼりつつ、・・・」(注8)とあり、1875年、公知の死後13年を経て跡見開学の際は充分に姉小路家の意を汲む内容の教育であったとおもわれるのです。
少しお話しは飛ぶのですが、この姉小路公知の曽祖父にあたるのが九州平戸藩(現在長崎県平戸市)大名の松浦静山です。松浦静山は「甲子夜話」の著者として有名ですが、また明治天皇(1852―1912)の曽祖父でもあります。また代々続いてきている平戸松浦家の明治期の当主は松浦心月(1840―1908)です。「史都平戸」(注9)を参考に系図を書きました。 《下図参照》
平戸藩は明治になる数代前から幕府と天皇家に血縁があったということがわかります。また跡見開学のきっかけをつくった姉小路公知は明治天皇とも血縁があり、なおかつ松浦心月とも血縁があったことがわかります。一.で述べましたように松浦心月は平戸藩主の嗣として政治家でもあり、伯爵で、茶道鎮信流の宗家であり、学習院女子部、日本女子大学で茶道を教授していました。明治期に衰退した茶道を隆盛にするため、茶道史では著名な和敬会の主導的立場にあった人です。当然のように心月も勤皇であり、皇室では和歌、弓道を御前でご披露するなどしていらしたそうです。また維新の動乱のなか、天皇に万が一の場合、船でフィリピンのほうまで水軍の力でお手引きする役割が松浦家にはあったことが一部伝えられてきているようです。 明治政府は初期伝統文化に冷淡であったのですが、明治も20年になりますと「井上馨邸への明治天皇行幸の際、天覧茶会があり、ここに茶道はまた公的な性格を認知され・・・茶の湯は政治的な役割を担わされ・・・遊芸として排されてされてきた茶の湯は、天皇陛下の行幸もある、公的な規式正しい文化であることが世間に宣伝された効果は大きい。」(注10)この流れのなかで明治22年女子学習院は茶道教科を新設しました。また明治末年になると実践女学校、共立女学校も茶道教科を新設しています。 ここまでしらべた跡見花蹊と茶道ですが、開学時のお茶のお流儀はまだ特定できないまま稿を終えることになってしまいました。花蹊はあるいは茶の湯のお流儀にはこだわらなかったかもしれません。 茶道鎮信流を伝える松浦家には跡見花蹊の掛け軸があること。また茶会では花蹊と心月が出会った記録も残っています。「心月は明治35年2月より鎮信公200回忌追善会を開いていますが、そのなかにも女性の姿が多く見え、下田歌子、跡見花蹊などの女子教育者の名前があるのです。」(注11)この辺りをもとにもっと研究を進めていただけるかたがでていらっしゃいますことを希望いたします。また父重敬の茶道については生地の摂津国西成都木津村(現大阪市西成区)の事情を詳しくたどる必要があるでしょう。